誕生までの歴史(3)

団地加入を広く呼びかける

「東大阪団地の現況検分」に続いて現地にある開発事務所を訪問した際、「他の申し込み団体との関係もあるので、希望通りに譲渡できるか確約できない。いずれにしても早く決定のうえ交渉を進めて欲しい」と現場出張所所長からの説明があり、希望者の確認と希望坪数を調査することになりました。

昭和42年8月5日の大阪機械業連合会「大機連ニュース第7号」による希望者と希望坪数は、今里46社8,600坪、谷町33社3,350坪、西淀・西北2社150坪で合計81社12,100坪と現在の面積21,400坪を大きく下回っており、前段階での予約はかなり難産であったことが伺えます。それと言うのも「流通副都心」といっても、当時は田園また田園で広いだけが取柄の土地で、地盤問題や交通問題はどうなるのかと心配した向きも多く、最終決定には思案があったものと思われます。

大阪市営地下鉄 中央線

ちなみに「大阪市営地下鉄4号線(中央線)の延長と近鉄東大阪線の新設」は昭和52年2月8日に大阪府都市計画地方審議会で了承され、昭和60年4月に今の「深江橋」駅から「長田」駅が開通しています。

こうした時に「機械屋だけの集まりでは視野が狭すぎるから、あらゆる業種の人に呼びかけようではないか」との声が次第に高まって身近な工具関係業者への呼びかけが積極的に行われました。その結果、西北地区(新町、立売堀地区)で1社の申込が一挙に14社となり申込坪数も4,000坪となりました。

しかし、ここで悩みの種になったのが大口の申込でした。1,000坪も2,000坪も欲しいところと100坪ではあまりにも格差がつきすぎるため、大口の申込を認めるか認めないかで議論が沸きに沸いたのです。昼頃に始まった会議も、既に夕暮れとなり、そして午後11時過ぎの深夜へとかかりました。(役員の表情は真剣で、これから協同組合の一員として協調しての共同事業遂行にあたってネックになってしまっては・・・の心配があったからでしょう)
もっとも大阪府の制約もありましたので大口も限度があり、とにかく300坪を限度としてなら入ってもらおうと言うことで落ち着きました。

その日、会議を終えて帰宅途中の役員の頭上には、既に明けの“明星”が輝いていました。中川勝氏は「高度成長期でもあり、前向きでスタートし、気を強くしていけた」と回想しています。

高度成長期の機械業界

当時の機械業界は、日本工作機械工業会がまとめた需給見通しによると、「昭和42年度の生産は960億円で昭和41年度の820億円に比べ18%アップ、輸出は180億円で前年度160億円に比べ12%増、内需は900億円で前年度比22%増」といったように、生産規模は昭和37年~38年の規模に次ぐ高水準になっています。
鍛圧機械も「自動車など関連産業の設備意欲の旺盛を反映し、各メーカーとも受注が急増しており、納期の10ヶ月から1年は平均で、なかには2年後の昭和44年ものの長納期も出ていた」状態でした。