誕生までの歴史(2)


機械団地誕生への胎動

今里機械街

戦後、谷町、九条の有力機械業者が今里地区に集まって、一大今里機械街ができたものの、過密化、狭隘化し、交通も絶えず渋滞、駐車困難となり、重量物の機械搬入、搬出は長時間を要し、交通機能がマヒ状態化で、取引が自然に減少するという危惧が生じていました。これは今里地区だけでなく谷町、立売堀、西淀川地区にも共通のもので、機械業者や工具業者は試行錯誤の形でその突破口を求めていました。

一方で、団地作りの原点が“大阪機械競売会(現在の機械工具入札会)”で、いわゆる工作機械や鍛圧機械の“セリ市”で、歴史は古く、戦前「東雲町機械置き場で第1番のセリをやり、九条の肉屋イロハで第2番のセリを行った」一例があり、大正末期には本田(大阪市西区)にあった中立競売会がありました。戦争で中断し、昭和21年に再び復活、やがて発展的に解消しましたが、昭和40年9月大阪機械業連合会の事業部として新発足し、翌年の昭和41年6月11日に第1回競売会事業として西淀川区の江崎鉄工所の整理機械を全部買い受けて、盛大に開催し、第2回は都島区の高倉町で開催しこれも盛大に終えています。
このように競売会が開かれたあとで必ず出た言葉が“年に何回か定期的に開催して行くために、かっこうな場所はないものか”とういことで、大阪機械業連合会の今里、谷町、西淀の各地区役員が総がかりで場所探しを開始した時期でもありました。

その突破口のひとつに東大阪市の誕生で、昭和42年2月1日に東大阪市発足宣言があり、その一つに“流通副都心に卸売機能を集中し、市内小売商の仕入を容易ならしめるほか、共同経営と組合組織を促進し、経営の近代化を助長する”との都市建設計画が明らかにされました。

そして、東大阪市がスタートした2ヵ月後の昭和42年4月4日「東大阪企業団地に関する説明会」が開催され、大阪機械業連合会の今里地区(現大阪今里機械業会)、谷町地区(現大阪谷町機械業会)、西北地区(現大阪西北機械業会)、西淀地区(西大阪機械業会)の会員有志が参加し、団地計画について詳しく聞き、約2ヵ月後の5月26日「百聞は一見に如かず」で大阪機械業連合会の有志約100名が自家用車30数台を連ね、「東大阪団地の現況検分」として紙文具と機械団地の予定2ヶ所を見学し、いよいよ団地作りへ動き出すこととなったのです。